私の履歴書

色々あったなと思いますが、感謝すべき人生だと思っています

私がこれまで歩んできた
人生について語りたいと
思います
興味のある方はご覧ください
いいことも悪いことも正直に
書いていきます
(よい面は多少セーブして
 書きますが・・・)
 
私は1955年10月に
母の実家のある
岡山で生まれました
そして小学6年の1学期まで
大阪で育ちました

当時は意識して
いなかったのですが、
今考えると私の家は
貧乏でした
父は従業員5人
(ほほ家族経営)の
運送会社に勤めており、
自転車の荷台に荷物を積んで
目的地まで運ぶ仕事をして
いました
母は、専業主婦でした
そして弟を含めた家族4人で
4畳半と6畳の長屋
(平屋のアパート)に
住んでいました
このような状況でしたが
私はある時は近所の
子供たちと
またある時は学校の友達と
タコを上げたり
コマ回しをしたり、
ビー玉やめんこで楽しく
遊んでいました
特に自分が貧乏だと
思うことは
ありませんでした
なぜなら、まわりも似たり
寄ったりだったからです

そんな楽しい思い出いっぱい
の大阪から引っ越すときが
やってきました
母方の祖父が経営する会社を
両親が手伝うことに
なったからです
父は工場長という名の
労働者、母は経理担当に
なりました
ここも従業員は
全部で5~6人でした

私は当然ながら転校しました
そして、ここから私の
苦難というか
忍耐の人生が始まる
ことになります
私は自分の家が貧乏で
あることと、
自分が低スペックな
人間であることを自覚
したからです

今だから話せますが
私が自分の家が貧乏だな
と思ったのは、
家のトイレが和式で
汲み取り式であったことと
電話がなかったことです
当時は個人情報に
うるさくなかったので、
学級名簿に家の電話番号が
記載されていたのですが、
そこに「呼び出し」と
記載されているのは
子供ながらに屈辱を
感じていました
「鈴木のところ、
電話ないの~」と悪気は
ないのですが、
そう聞かれるたびに
私は恥ずかしい思いを
していました

また小学6年にもなると
勉強もだんだん難しく
なってきて,
それと同時に
「自分はあまり
  頭よくないなー」
「記憶力もよくないなー」と
自覚するように
なっていました
他の面に関しても
私は体が硬く(関節も固い)
かつ毛深いことに劣等感を
もっていました
さらに、走るのは短距離
長距離ともに遅い
水泳は息継ぎができない
野球はフライが捕れない、
サッカーはボールを
蹴っても浮かない
(ゴロばかり)
鉄棒は逆上がりができない
絵を描かせれば描くのが遅い
音符は読めない
リズム感はない、
横笛がふけない、そ
して不器用でした
とにかく私には何の才能も
素質もありませんでした

                                   続く

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